『李毛異同(22)』 -悪女連環の計

 かつて王允貂蝉で以て「美女連環の計」を仕掛け、董卓呂布の間を裂くことに成功しました。
 それが第十三回にて、今度は楊彪が郭艴の妻で以て離間計を仕掛け、李傕と郭艴の間を裂こうとします。それは結果として両者を仲違いさせることはできましたが、しかしその為に長安は戦禍に陥り、献帝・伏皇后は塗炭の苦しみを味わうことになります。
 毛宗崗は言います。「同じ女性を用いた離間計でありながら、王允は乱を鎮め、楊彪は乱を拡大させた」と。ではその違いはどこにあったのでしょうか?
 仙石知子先生は『三国志の女性たち』の中で、その原因は郭艴妻の「嫉妬心」にあると指摘されています。貂蝉が「忠」と「孝」に従って計略に身を捧げたのとは異なり、郭艴妻を動かしたのは「郭艴が李傕妻と不貞をしている」という嫉妬心でした。『三国志演義』は李傕と郭艴、そして漢朝廷の破滅の原因を「女性の嫉妬」に置くことで、それを強く批難している、のだそうです。

 毛宗崗もまたそんな『三国志演義』の義を引き継いで、郭艴妻の嫉妬を批難する改変をしていました。
 楊彪の台詞である「郭艴の妻最妬と聞く、人をして艴妻において反間の計を用うるべし」にある「郭艴之妻最妬」の字句は「毛宗崗本」で新たに加えれたものです。
 またこれは仙石先生が指摘されていることですが、

 李傕の使者が、酒を届けてきた。郭艴の妻は密かにその酒に毒を入れ、食事の場に運び入れた。(「毛本」第十三回)*1

 ここでは郭艴妻が自ら毒を盛っていますが、「李卓吾本」ではそれを実行したのは郭艴妻の指示を受けた婢妾でした。「毛宗崗本」は郭艴妻自身に実行させることでその嫉妬深さを強調しています。
 この様に、毛宗崗も郭艴妻の嫉妬をこの場面の重要な要素と考えており、それを批難することで、『三国志演義』の義をより鮮明にしていたのでした。

*1:この訳は仙石先生に拠っています

『李毛異同(21)』 -呂布の亡命先

 陳宮曰く「今曹兵の勢大にして、未だ与に爭うべらかず。先に尋ねて安身の地を取る、時において再來するに遅からざる。」布曰く「吾再び袁紹に投ぜんと欲す、何如?」……(袁紹はこれを拒んで)紹遂に顏良を遣り兵五萬を将せしめ、往きて曹操を助く。布大いに驚き、陳宮と商議す。宮曰く「劉玄紱新たに徐州を領すと聞く、往き之に投ずべし。」布其の言に従う。(「毛本」第十三回)

 曹操に敗れた呂布は、一度は袁紹の元に亡命せんと試みるものの、袁紹がこれを拒んだためにやむなく劉備の方へと逃れます。
 しかし「李卓吾本」ではここで袁紹に投降を試みる様子はなく、まっすぐ劉備の元に向かっています。袁紹というワンクッションを置いたのは毛宗崗でした。
 基本的に簡略化を旨とする毛宗崗がわざわざ袁紹を加えた理由は、第二十二回で登場する陳琳の檄文にて「(曹操は)地呂布に奪われて、東辺を彷徨して安息の地すらなし。余、呂布に組せずして、再び軍をおこし、呂布の衆潰走せり。かくて曹操が死を救い、その位に復せしむ」とあることに従ったためだと思います。*1
 陳琳の檄文は毛宗崗が自信満々で新たに加えたものですので、檄文の内容と本文とを合致させたかったのでしょう。
 
 ところでこの段落について、『吉川三国志』がここを「毛宗崗本」に準拠させています。クドいですけど、『吉川三国志』は「李卓吾本」の系統に属する『演義』訳です。
 そんな『吉川三国志』が珍しく「毛宗崗本」に拠った箇所として、卒論でも取り上げました。

*1:原文:地奪於呂布、彷徨東裔、蹈據無所。……且不登叛人之黨、故復援旌擐甲、……布眾奔沮。拯其死亡之患,復其方伯之位。
訳文は立間先生に拠りました。

『李毛異同(20)』 ‐劉備の自刎未遂

 『三国志演義』第十一回、曹操を退けた劉備に対し、陶謙たちはしきりに徐州を譲ろうと勧めます。
 まず陶謙が勧め、それを劉備が断り、糜竺が勧め、劉備が断り、陳登が勧め、劉備が断り、陳登と孔融が勧め、劉備が断り、陶謙が泣いて懇願し、関羽張飛が勧めて、とうとう劉備が本気になって拒絶、やむなく陶謙はひとまず小沛に留まってくれと妥協して、やっと劉備はその考えを容れます。
 こういう時に謙遜して辞退するのは当時の常識ですけど、劉備は実に五回も、周りの誰が勧めようと決して頷きませんでした。
 とは言え陶謙も切実ですから、そうそう引き下がれない筈です。しかし最終的に折れたのは陶謙の方でした。それこそ自分の命を掛けてる陶謙を妥協させたのは、「毛宗崗本」では削られてしまった以下のシーンでした。

 (関羽張飛が勧めると)玄徳曰く「汝等、我をして不義に陥しめる也。吾が身死するかな」言い訖えて剣を掣き自刎せんとし、趙雲佩剣を奪う。(「李本」第十一回)

 劉備自刎を図る場面はここだけではありませんが、しかし州牧の譲渡を提言されただけで自刎とはどうしたことでしょう?
 想像しますに、これより前に袁紹が、冀州を救援すると偽ってそのまま韓馥から奪ってしまう話があります。勿論袁紹のそれは謀略であり、劉備が義によって援けたものとは全く違いますけど、救援した州をそのまま自分のものにしてしまうという、形だけ見れば同じであるとも言えます。
 なのでこの場面でここまでしつこく劉備が拒否し続けるのは、その前の袁紹同様の不義とイメージさせたくないが為なのではないでしょうか。
 しかし劉備が拒否すればするほど、後の蜀奪りとの矛盾を疑われてしまう訳ですが・・・。

『李毛異同(19)』 -劉岱は一人だけ

 後漢末、劉岱公山という人物が同姓同名同字で二人いた事はよく知られています。兗州牧として反董卓連合に加わったの劉岱と、曹操配下として徐州の劉備を攻めた劉岱ですね。
 そしてこの二人が『三国志演義』では混同されて同一人物として扱われていることもまたよく知られています。

 これについては『三国志演義』第二十二回にて、劉備が攻め寄せる劉岱に対して「かつて兗州刺史として反董連合の一鎮を担っていた人物」*1とはっきりと述べていますので、『三国志演義』が両者を同一視していることは間違いありません。ただそれが混同によるもの、特に一般のファンにイメージされているような「『演義』の知識不足よる混同」かと言うと、僕はそうとは思いません。
 金文京先生は『三国志演義の世界』においてこれに触れておられ、これを「知ってか知らないでか両者を同一視した」とし、それはあるいは煩雑な説明を省くための単純化によるものだったのではないかとされています。僕もまた金先生のおっしゃる通りであろうと思っていますが、ただもっとはっきりと、これは意図的な創作であり、物語を面白くする上での同一視であると断言していいだろうとも考えております。

 と言いますのも、注目すべきは「李卓吾本」第十回、兗州牧劉岱が"誤って"死亡しているところです。

青州黄巾又起ちて、衆百万を集めて……兗州牧劉岱を殺せり(「李本」第十回)

 言わずもがなこれは正史に基づく記述であり、これでは第二十二回の劉備の発言とは矛盾してしまいます。これは全く『三国志演義』のミスです。
 しかし問題はこの矛盾そのものではなく、これを解消するために毛宗崗が行った改訂にありました。毛宗崗はここで、第十回の文章を削って第二十二回の劉備の発言をそのまま残すという、史実に反する改訂をしたのです。
 兗州牧劉岱が死ぬことは『資治通鑑』にも『三国志』にもあることですから、ここを改訂した毛宗崗が史実の劉岱を知らないということはありません。ならばそれに従って第二十二回の劉備の発言の方を削り、劉岱の同一視と矛盾とを解消することができた筈です。にも関わらず毛宗崗は史実に背いた改訂を行ってまでして、劉岱の同一視を残しました。何故でしょうか?
 

 その理由は、第二十二回に挿入された毛宗崗の評語に表れていました。

 まさに劉備公孫瓚の背後に立っていた時、劉岱は厳然として上座に座っていた諸侯であった。しかし今日の劉岱は首をうなだれて曹操の手先となり、張飛に敗れ、呼ばれれば来、怒鳴られれば去る、その様は子供の様であり、どうしてこれを恥じずにいられるだろうか。今の上座に居る者が、事が迫れば忽ちに人の背後に立つ、密かに笑う所なり

 つまり毛宗崗は、かつて天下に讃えられる諸侯であった劉岱が、同じ頃には全くの末席にいたはずの張飛に現在は翻弄されていると言う、そんな様子に面白味と痛快さ、そして実のない者が上座から転げ落ちるという多少の教訓を見出しているのです。
 毛宗崗の改訂は、全体を見れば創作を廃して史実に接近していると言われています。しかし時には敢えて、この様な虚構を選択する場合もありました。そこに毛宗崗がかくあるべしと考える「義」が含まれている場合です。
 ここで複雑な解説を交えてまでして史実に正したとしても、それは劉岱というどうでもいい端役の身分が明らかになるのみで、大きな意味はありません。よりも劉岱を同一視してその転落した姿を描く方が、より物語として面白く、より規範として奥深くあるようと考える毛宗崗の方針と合致する訳です。
 決して単なる混同などではありません、これは毛宗崗が敢えて残した「創作」なのです。

*1:玄紱曰「劉岱昔為袞州刺史、虎牢伐董卓時、也是一鎮諸侯。今日為前軍、不可輕敵。」

『李毛異同(18)』 -种拂の最期

李傕、郭艴兵を縦にして大掠す。太常卿种拂、太僕魯馗、大鴻臚周奐、城門校尉崔烈、越騎校尉王頎、皆な國難に死す。(「毛本」第九回)

 「毛宗崗本」ではこの様に一括して名前が並べられているだけですけれど、「李卓吾本」では种拂のちょっと格好いい最期が描かれてました。
 

太常卿种拂、家奴数人を引きて賊と死戦し、乱箭を被り南宮掖門において射られ死す。(「李本」第九回)

 これは『後漢書』种翬伝や『資治通鑑』初平三年の条を元にした挿話かと思いますが、当時の延臣たちのイメージからはちょっと意外な、勇壮な最期です。
 
 ちなみに彼の子供の种劭は第十回にて、馬騰らと図って李傕政権に叛旗を翻しますが、あえなく討死してしまっています。
 また同姓の种輯は第二十回以降に登場して、董承らと曹操排除を謀る一味に加わってます。
 いずれも『後漢書』に基づくシナリオでして、なんというか、すごいですね(笑)

『李毛異同(17)』 -名将李肅の死

 牛輔、李肅の備えざるに乗じ、竟るに寨に來り劫かす。肅軍亂竄し、敗走すること三十餘里、軍を折くこと半ばに大なり。來たりて呂布に見え、布大いに怒り曰く「汝何んぞ吾の銳氣を挫かん!」遂に李肅を斬り、軍門に頭を懸ける。(「毛本」第九回)

 旧董卓軍を追撃したはずの李肅は、牛輔に思わぬ大敗を喫し、それを怒った呂布によって処刑されてしまいます。かの李広の後裔と讃えられた名将李肅の最期としては全くあっけないものです。

 ところで「李卓吾本」以前には以下の一文があり、李肅の死が、呂布破滅の始まりとして位置づけられていました。

 肅已に死、三軍呂布の法度を畏れ、皆変心する有り。布自ら剛に負い勇に恃み、士卒を鞭撻す。軍の心已に離す。(「李本」第九回)

 対する毛宗崗は、李肅の死は呂布に父殺しをさせた罪による因果応報であると評語にて説明しています。「李卓吾本」が呂布の咎として位置づけていた本エピソードを、毛宗崗は李肅自身の罪であったと変更したのです。上記文を削ったのはその為でしょう。
 ストーリーの厚みを削っても「義を演ず」方を選ぶ、毛宗崗らしい改訂だと思います。

『李毛異同(16)』 -李儒の最期

 以前に別な記事でも取り上げ、また卒論でも重要な事例として利用しました。

 李儒は大地に縛られけるが四方の軍民日ごろの恨をすすがんとて、争そうて其肉を一口づつ啖て、遂に喰い殺せり。(「李本」第九回)*1

 王允は市中に引き出して斬首するように命じた。(「毛本」第九回)*2

 ここまで残酷な死を用意された人物と言うと、『三国志演義』ではちょっと思い当たりません。その死骸を散々に痛めつけられた董卓自身と併せて、いかに彼らが邪悪な存在として処分されたかがよく分かります。

 しかし毛宗崗はこれらをよろしく思わなかったのか、単に斬首に処したと改めています。
 そして『吉川三国志』もまた、この箇所に限っては「毛宗崗本」に従って改め、『通俗三国志』の残虐性を避けました。
 李儒という有名な人物の、インパクトあるこの最期が現在意外に知られていないのは、そんな吉川英治の配慮によるものでした。

*1:『通俗三国志』より

*2:立間訳より