『李毛異同(20)』 ‐劉備の自刎未遂

 『三国志演義』第十一回、曹操を退けた劉備に対し、陶謙たちはしきりに徐州を譲ろうと勧めます。
 まず陶謙が勧め、それを劉備が断り、糜竺が勧め、劉備が断り、陳登が勧め、劉備が断り、陳登と孔融が勧め、劉備が断り、陶謙が泣いて懇願し、関羽張飛が勧めて、とうとう劉備が本気になって拒絶、やむなく陶謙はひとまず小沛に留まってくれと妥協して、やっと劉備はその考えを容れます。
 こういう時に謙遜して辞退するのは当時の常識ですけど、劉備は実に五回も、周りの誰が勧めようと決して頷きませんでした。
 とは言え陶謙も切実ですから、そうそう引き下がれない筈です。しかし最終的に折れたのは陶謙の方でした。それこそ自分の命を掛けてる陶謙を妥協させたのは、「毛宗崗本」では削られてしまった以下のシーンでした。

 (関羽張飛が勧めると)玄徳曰く「汝等、我をして不義に陥しめる也。吾が身死するかな」言い訖えて剣を掣き自刎せんとし、趙雲佩剣を奪う。(「李本」第十一回)

 劉備自刎を図る場面はここだけではありませんが、しかし州牧の譲渡を提言されただけで自刎とはどうしたことでしょう?
 想像しますに、これより前に袁紹が、冀州を救援すると偽ってそのまま韓馥から奪ってしまう話があります。勿論袁紹のそれは謀略であり、劉備が義によって援けたものとは全く違いますけど、救援した州をそのまま自分のものにしてしまうという、形だけ見れば同じであるとも言えます。
 なのでこの場面でここまでしつこく劉備が拒否し続けるのは、その前の袁紹同様の不義とイメージさせたくないが為なのではないでしょうか。
 しかし劉備が拒否すればするほど、後の蜀奪りとの矛盾を疑われてしまう訳ですが・・・。