『李毛異同(21)』 -呂布の亡命先

 陳宮曰く「今曹兵の勢大にして、未だ与に爭うべらかず。先に尋ねて安身の地を取る、時において再來するに遅からざる。」布曰く「吾再び袁紹に投ぜんと欲す、何如?」……(袁紹はこれを拒んで)紹遂に顏良を遣り兵五萬を将せしめ、往きて曹操を助く。布大いに驚き、陳宮と商議す。宮曰く「劉玄紱新たに徐州を領すと聞く、往き之に投ずべし。」布其の言に従う。(「毛本」第十三回)

 曹操に敗れた呂布は、一度は袁紹の元に亡命せんと試みるものの、袁紹がこれを拒んだためにやむなく劉備の方へと逃れます。
 しかし「李卓吾本」ではここで袁紹に投降を試みる様子はなく、まっすぐ劉備の元に向かっています。袁紹というワンクッションを置いたのは毛宗崗でした。
 基本的に簡略化を旨とする毛宗崗がわざわざ袁紹を加えた理由は、第二十二回で登場する陳琳の檄文にて「(曹操は)地呂布に奪われて、東辺を彷徨して安息の地すらなし。余、呂布に組せずして、再び軍をおこし、呂布の衆潰走せり。かくて曹操が死を救い、その位に復せしむ」とあることに従ったためだと思います。*1
 陳琳の檄文は毛宗崗が自信満々で新たに加えたものですので、檄文の内容と本文とを合致させたかったのでしょう。
 
 ところでこの段落について、『吉川三国志』がここを「毛宗崗本」に準拠させています。クドいですけど、『吉川三国志』は「李卓吾本」の系統に属する『演義』訳です。
 そんな『吉川三国志』が珍しく「毛宗崗本」に拠った箇所として、卒論でも取り上げました。

*1:原文:地奪於呂布、彷徨東裔、蹈據無所。……且不登叛人之黨、故復援旌擐甲、……布眾奔沮。拯其死亡之患,復其方伯之位。
訳文は立間先生に拠りました。