『李毛異同(15)』 -「呂」旗を掲げる道士
董卓車上に在りて、一道人を見ゆ。青袍白巾、手に長竿を執り、上げて布一丈を縛り、「呂」字を大書す。(「李本」第九回)
次日の侵晨、董卓列を擺べて入朝すれば、忽ち一道人を見ゆ。青袍白巾、手に長竿を執り、上げて布一丈を縛り、両頭に各「口」字を書す。卓、李肅に問いて曰く「此の道人何の意や?」(「毛本」第九回)
謎の道士が呂布を暗示させる旗を掲げていたという、董卓の破滅を暗示する兆しのひとつですが、太字箇所の通り、「李卓吾本」と「毛宗崗本」では書かれてる文字がちょっとだけ違っています。
「李卓吾本」は呂布の姓である「呂」。
対して「毛宗崗本」は「口の字がふたつ」と、一見して呂布と分からぬようより暗号めかしています。
些細な改訂ですけど、より読者を楽しませようという毛宗崗の姿勢が垣間見えますね。*1
また余談ですけど、『通俗三国志』はこの挿話自体をカットしてます。ところがそれを底本にしたはずの『吉川三国志』にはあります。
なのでこれは吉川英治が『通俗三国志』以外の「三国志」を参照した証拠である、って卒論で書きました。
『李毛異同(14)』 ‐李儒の病欠
(董卓)即ち(長安)城外に至り、百官俱に出でて迎接す。只だ李儒は病を抱く有りて家に在り、出でて迎うるあたわず。(「毛本」第九回)
董卓暗殺の直前、帝位を餌におびき寄せられた董卓が長安に到着した場面ですが、この一段落は「毛宗崗本」によって新たに挿入されていました。
「李卓吾本」以前ではクーデター時に李儒が登場することはありませんでしたが、毛宗崗によってその様子と理由が描かれました。読者としても、こんな大事な場面にあの李儒はどうしたんだと疑問に思ったのでしょうから、毛宗崗はその辺も丁寧に補ったと言えます。クーデターにあたって董卓の頭脳をきっちり抑えていたんだ、という王允サイドの周到さを示す一幕ですね。
同様の挿話は李傕ら四将軍に対しても行われおり、この場面の前に彼らが郿塢に留め置かれたことが描かれています。これも、「毛宗崗本」で新たに挿入された文章です。
ブレーンたる李儒を奪われ、手足である四将軍は郿に留まったまま、そして肝心の名将呂布・李肅は既に敵方に寝返っていたのですから、まったくもって董卓は丸裸だったわけですね。
『李毛異同(12)』 ‐袁術の書状
異日、印を奪い路を截つは、乃ち吾が兄袁紹の謀也。今紹は又劉表と相議し、兵を起し江東を襲う。公速やかに兵を興し荊州を取るべし、吾当に与に動き袁紹を挟んで攻めんとし、二讐を報ずべし。(「李本」第七回)
袁術が孫堅に同盟を持ちかけ、荊州を攻めさせようとする場面。上記はその際の袁術側からの書状ですけど、よく考えるとここで玉璽に関して袁術が言及しているのはおかしいですね。
孫堅としては、表向きでは玉璽に関することは全て知らぬ存ぜぬなのですから、袁術が「あなたは袁紹に玉璽を奪われかけた恨みがありますよね」と言っても、孫堅はそれを認めることはできません。この書状を飲んでしまえば、それは孫堅が玉璽を独り占めして洛陽を脱出したことも認めてしまうことになるのですから。
毛宗崗はこの誤りに気付いたようで、玉璽に関する一文を削っています。細かいところもしっかりチェックする毛宗崗でした。
『李毛異同(11)』 ‐劉表の出自
荊州刺史劉表、字は景升、山陽高平の人なり、幼時、漢末の名士七人有ると結交して友と為す。時に江夏八俊と号す。……表は身長八尺余有り、姿貌甚だ偉たり、乃ち漢室の宗親にて劉勝の後なり。(「李本」第六回)
『後漢書』は劉表の祖先として魯王劉餘を挙げておりますが、ここでは何故か「劉勝」としています。劉勝、と言えばあの中山王のことでしょう。劉備の祖先の。
あえて"改変"までして劉備と同族に据えるとは、よほどの意味がありまそうですが、あるいは単なる誤記か偶然かも、、、はて。
ちなみに「毛宗崗本」は「漢室の宗親」とするのみでその血縁を書きません。
さらにちなみに「嘉靖本」ですと、「劉叡」と書いています。漢代の皇族で劉叡という人は、ちょっと誰のことか分かりません。誤字でしょうか?
この様に三版本で異なるとなれば、これは他の版本にもあたってみなくてはなりません。
『李毛異同(10)』 ‐董卓が三公諸侯を任じる
李儒卓に名流を擢用するを勸め、因りて蔡邕の才を薦す。(「毛本」第四回)
昨日は蔡邕の辟紹について書きましたが、実は毛宗崗はこのエピソードを挿入するにあたって、その代わりに同じ箇所にあった以下の挿話を削っていました。
黄琬を封じて太尉と為し、楊彪を司徒と為し、荀爽を司空と為す。韓馥を冀州牧と為し、張邈を陳留太守と為し、張資を南陽太守と為す。(「李本」第四回)
新帝冊立に伴う、内外諸官の新任のシーンです。
でもってこの顔触れを見ての通り、ほとんどがこの後董卓に背いてしまう人たちなんです。なのでここは、董卓が自ら任じた諸官に叛乱されるという、後の場面への伏線になっています。
だから毛宗崗がこの任命場面を削ってしまっては、諸侯蜂起の場面の面白味が減ってしまう訳です。これは勿体ない削除でした。
と言いますかむしろ、百官の任命も蔡邕の登用もそのまま並べて記載するべきだったと思います。したらばそうすることよって、上記の伏線効果が活きるのは勿論のこと、それら叛乱してしまった者らに対して、蔡邕だけがただひとり董卓に背かなかったと、彼の行動も強調されるではないですか。