『李毛異同(28)』 -赤壁直前、馬騰はどこにいた?

 『三国志演義』が馬超一族をより高めて描こうとしていることは様々研究されており、たとえば正史で「馬超謀反⇒馬騰処刑」であった因果関係が、『演義』では「馬騰処刑⇒馬超謀反」に変わっていることはその代表例であります。
 本記事で扱う事例もそのひとつかと思われます。


 場面は赤壁決戦の直前で、前線を離脱したい徐庶西涼勢謀反の噂を流布するところです。その際に謀反を起こすと言われる人物が、李卓吾本では「韓遂馬超」であり、毛宗崗本では「韓遂馬騰」と、微妙に異なっています。

李卓吾本】
 人來報知曹操、說、「西凉州韓遂馬超謀反、殺奔許都來」
【毛宗崗本】
 人報知曹操、說、「軍中傳言西涼韓遂馬騰謀反、殺奔許都來」

 また『演義』第44回にて、周瑜曹操軍の弱点として西涼勢の憂いを指摘しますが、そこで名前が挙がるのも「李本:韓遂馬超」、「毛本:韓遂馬騰」であります。

 そもそもこれらの挿話は、『資治通鑑』建安十三年にある周瑜の台詞(演義44回と大体同じ)に基づいています。そして当然、『資治通鑑』で挙げられる名前は「韓遂馬超」です。何故なら、『資治通鑑』によれば、馬騰は同年6月頃、既に西涼を離れて上京していたからです。よって歴史的な背景を考えれば、赤壁の戦いの時点では既に馬騰西涼におらず、謀反を起こす人物としては「韓遂馬超」の方が歴史的には正しい、ということになります。毛宗崗は歴史的に間違った改変をしているわけです。

 しかし歴史的には間違った改変でも、『演義』のストーリーに照らすと矛盾はなくなります。
 『資治通鑑』を参照するに、馬騰は建安十三年に入京し、そして十六年に馬超が謀叛したために、十七年に処刑されます。
 しかし『三国志演義』では、第57回を参照の通り、建安五年頃から十六年までずっと西涼に留まったままであり、歴史上にある「建安十三年に入京する」がなかったことにされているわけです。冒頭で述べた、馬超一族宣揚の一環ですね。
 となれば、赤壁時点で馬騰西涼にいることは『演義』的にはなんら問題なく、むしろ毛宗崗本の改変は、「馬騰が京にいない」ことを強調する、実に細やかな改変だと言えるでしょう。