『李毛異同(19)』 -劉岱は一人だけ

 後漢末、劉岱公山という人物が同姓同名同字で二人いた事はよく知られています。兗州牧として反董卓連合に加わったの劉岱と、曹操配下として徐州の劉備を攻めた劉岱ですね。
 そしてこの二人が『三国志演義』では混同されて同一人物として扱われていることもまたよく知られています。

 これについては『三国志演義』第二十二回にて、劉備が攻め寄せる劉岱に対して「かつて兗州刺史として反董連合の一鎮を担っていた人物」*1とはっきりと述べていますので、『三国志演義』が両者を同一視していることは間違いありません。ただそれが混同によるもの、特に一般のファンにイメージされているような「『演義』の知識不足よる混同」かと言うと、僕はそうとは思いません。
 金文京先生は『三国志演義の世界』においてこれに触れておられ、これを「知ってか知らないでか両者を同一視した」とし、それはあるいは煩雑な説明を省くための単純化によるものだったのではないかとされています。僕もまた金先生のおっしゃる通りであろうと思っていますが、ただもっとはっきりと、これは意図的な創作であり、物語を面白くする上での同一視であると断言していいだろうとも考えております。

 と言いますのも、注目すべきは「李卓吾本」第十回、兗州牧劉岱が"誤って"死亡しているところです。

青州黄巾又起ちて、衆百万を集めて……兗州牧劉岱を殺せり(「李本」第十回)

 言わずもがなこれは正史に基づく記述であり、これでは第二十二回の劉備の発言とは矛盾してしまいます。これは全く『三国志演義』のミスです。
 しかし問題はこの矛盾そのものではなく、これを解消するために毛宗崗が行った改訂にありました。毛宗崗はここで、第十回の文章を削って第二十二回の劉備の発言をそのまま残すという、史実に反する改訂をしたのです。
 兗州牧劉岱が死ぬことは『資治通鑑』にも『三国志』にもあることですから、ここを改訂した毛宗崗が史実の劉岱を知らないということはありません。ならばそれに従って第二十二回の劉備の発言の方を削り、劉岱の同一視と矛盾とを解消することができた筈です。にも関わらず毛宗崗は史実に背いた改訂を行ってまでして、劉岱の同一視を残しました。何故でしょうか?
 

 その理由は、第二十二回に挿入された毛宗崗の評語に表れていました。

 まさに劉備公孫瓚の背後に立っていた時、劉岱は厳然として上座に座っていた諸侯であった。しかし今日の劉岱は首をうなだれて曹操の手先となり、張飛に敗れ、呼ばれれば来、怒鳴られれば去る、その様は子供の様であり、どうしてこれを恥じずにいられるだろうか。今の上座に居る者が、事が迫れば忽ちに人の背後に立つ、密かに笑う所なり

 つまり毛宗崗は、かつて天下に讃えられる諸侯であった劉岱が、同じ頃には全くの末席にいたはずの張飛に現在は翻弄されていると言う、そんな様子に面白味と痛快さ、そして実のない者が上座から転げ落ちるという多少の教訓を見出しているのです。
 毛宗崗の改訂は、全体を見れば創作を廃して史実に接近していると言われています。しかし時には敢えて、この様な虚構を選択する場合もありました。そこに毛宗崗がかくあるべしと考える「義」が含まれている場合です。
 ここで複雑な解説を交えてまでして史実に正したとしても、それは劉岱というどうでもいい端役の身分が明らかになるのみで、大きな意味はありません。よりも劉岱を同一視してその転落した姿を描く方が、より物語として面白く、より規範として奥深くあるようと考える毛宗崗の方針と合致する訳です。
 決して単なる混同などではありません、これは毛宗崗が敢えて残した「創作」なのです。

*1:玄紱曰「劉岱昔為袞州刺史、虎牢伐董卓時、也是一鎮諸侯。今日為前軍、不可輕敵。」