「李卓吾本」と「毛宗崗本」について

 『三国志演義』にはバリエーションがあります。
 現代の小説がずーっと同じテキストを出版し続けるのとは違い、この様な古典作品は、非常に長い年月、非常にたくさんの出版者の手に渡り、その都度"よりよい形"に改められ続けてきたからです。これをよく「版本の違い」と言います。
 たとえば『水滸伝』などは版本の違いが顕著であり、いま日本で翻訳されてる代表的『水滸伝』はぜんぶ版本が違って、吉川訳は全100回、駒田訳は全120回、村上訳は全70回、ってなってます。
 版本の違いはストーリーの違い、あるいはエピソードの有無、設定・描写の違いなど、さまざまな点に影響を与え、ためにそれこそたっくさんの先生方がこれをご研究の対象にされているところであります。

 現在ではたくさんの『三国志演義』版本とその異同が研究されている訳ですが、そのうち李卓吾本」「毛宗崗本」と呼ばれる二種は、最も代表的な版本であります。
 なぜなら現代の日本でもこの二種のみは今なお読み続けられているからです。

「毛宗崗本」

 『三国志演義』版本のうち、現代のアジアで最も広く流通している版本です。というよりこの「毛本」以外はもうないかもしれません。従来の版本を全て駆逐してしまったくらい、とてもよくできた版本なのです。
 日本においても、現在出版されている『三国志演義』翻訳本は、全て「毛本」を翻訳したものであり、それ以外はありません。日頃普通に『三国志演義』を読んだ、って言ったら全部コレのことを指してるわけであります。

李卓吾本」

 「毛本」が成立するにあたって、その底本となった版本です。
 「毛宗崗本」以前は最も広く読まれてたらしいんですけど、「毛本」の出現によりすっかり駆逐されてしまった版本です。
 日本で最初の『三国志演義』訳はこの「李本」を翻訳したものでした。それを『通俗三国志』と言います。ために日本では長らく「李本」の方が読み続けられていまして、「毛宗崗本」が日本に定着するには戦後の小川先生や立間先生の全訳を待たねばならないほどでした。
 しかも「李卓吾本」の系統は、「毛宗崗本」が圧倒的主流となった現代でもなお、思わぬ形で残っています。
 それが吉川英治の『三国志』です。
 『通俗三国志』に依拠しながら執筆された本作は、すなわち『通俗三国志』の持つ「李本」的特徴をほぼそのまま受け継いでいまして、そのために現在の『三国志演義』では失われてしまったエピソードなんかも、多数残しているんです。
 




 この様にして、現代日本の「三国志」ファンは、知らず知らずのうちに二種類の『三国志演義』を読んでいるんです。これは多分とても貴重なことだろうと思います。
 このブログではその両者の違いをひとつひとつ、比べていきます。